走馬灯と実家の犬と妖怪と
電車が通り過ぎるのを待っていた。
自宅の最寄りのスーパーで牛乳と酒を買った帰り道。ズボンのポケットからスマートフォンを取り出してSNSアプリを立ち上げて毒にも薬にもならない情報をスクロールしていく。無意識で、日常の行動だ。
スマートフォンをポケットにしまい、列車進行方向指示器を眺めながら家に帰ってやらなければならない仕事を思い浮かべ、ため息をつく。これも日常だ。
そんな”いつも”を打ち破る「キャー」とも「ヒャー」ともつかない声が突然背中に突き刺さる。反射的に後ろを振り返った視界を真っ黒なボールのようなものが過ぎ去っていく。ボールに反応し、叫び声の出どころを確認する前に弾かれるように視線を再び前方に戻す。黒い毛を身に纏ったなにかーー恐らく、犬だーーが躍動感たっぷりに駆けていく。同じタイミングで視界の左から下りの急行電車が線路の上を滑っていく。ぶつかる。
瞬間、様々なことが頭を過ぎっていく。
なんで僕はアレを止められなかったのか。嘘だろ。どこから走ってきたのか。飼い主はどこに?実家の犬があんなに元気よく走った姿を見たことはなかった。死んじゃう。実家の犬は最期の数年間ほとんど歩けなかったのに。
全部がスローモーションだ。
その瞬間を見たくないと手で顔を覆う。けど一方で、その瞬間を見ようと少し指を広げながら薄目を開ける自分がいる。「ひぃ」と声にならない声が出る。背後から「いやあー」という声も聞こえる。やっぱり無理。顔を背ける。
電車が急ブレーキを掛ける音が聞こえた、気がした。が、そのまま電車は走り抜けて下り方面へと向かっていく。薄目の中では、電車にぶつかる直前で犬が直角に曲がって避けていった。気がした。
何事もなかったかのように踏切が上がっていく。何らかの生物が轢かれたような痕は見られない。犬と電車がぶつかりそうだったポイントで立ち止まり周囲を見る。何もない。
心臓が脈打ちながら家路を行く。犬が電車に向かっていく瞬間以上に、色々な考えが頭を過ぎる。
さっきの光景はなんだったのか。あの黒い毛は恐らくプードルだったのではないか。でもプードルにしては敏捷すぎた気がする。実家のプードルは走るのが異様に遅かった。本当に轢かれてなかったのか。そもそも、あの速い毛玉も、耳に突き刺さった叫び声も、すべて幻だったのではないだろうか。実家の犬が死んだのも幻だったのではないか。
帰宅から数時間してからも「あの犬はなんだったのか」という疑問も消えない。
実家の犬があんなに元気に駆け抜けていく姿を一度は見たかったという思いと、人間は咄嗟のシーンが本当にスローモーションに映るのだという、発見とも感慨ともつかない思いが頭いっぱいになる。
SNSで「犬 線路」「犬 踏み切り」などで検索するも何も出ないし、最寄りの路線の運行情報を確認しても遅延情報は出てこない。「よかった。轢かれた犬はいないんだ」と思う。同時に、もしかしたらあれは何かの妖怪だったのかもしれないなと感じる。実家の犬も妖怪だったなら、僕よりも長生きしてくれたかもしれないけれども。