読書体験と、感情のアウトソーシングのメリットの少なさについて

「読書をするために読書をする」という経験を初めてしたのは、たしか小学生5年生とか6年生の頃だった。母から勧められて赤川次郎の三毛猫ホームズシリーズを読んだことが始まりだったように記憶している。

それ以降、小説を中心に本に触れるようになったのだが、図書館や古本屋で面白そうな本を手に取り、好きになった作家を中心に掘るように読んできたタイプであり、文学の礎となる古典や歴史に残る名著を嗜むことは多くなかった。難しそうでおもしろくなさそうだったからだ。一方で、不幸なことにその時々の売れ筋の本に手を出すほどの気軽さがあったわけでもない。そんな怠惰さとでややこじらせた自意識を持ち合わせていたこともあって、文学論を語れるわけではなく、本を通して世の中を見つめるようなこともできず、胸を張って読書家と言えるわけでもない。高校生の頃にある本を読んでその後の進路を決め、大学は文学部に入り、かつて決めた進路を今も歩んでいるので、「一冊の本に人生を変えられた」と大げさに表現できなくもないが、やはり自分は、掃いて捨てるほどいるレベルの本好きな人間だと自認している。

「本」の文字にはいつどこであっても惹かれはする

その程度の本好きなので、社会人になってからは読書をするのは専ら移動時間が中心であった。幸か不幸か、会社員の頃は、通勤をはじめ、客先訪問や出張など移動時間が多かったので隙あらば本を読んでいた。ただ、会社員を辞してフリーランスになってからは移動時間が一気に減り、必然的に読書に掛ける時間が減ってしまった。移動が減っただけではなく、スマートフォンの発達に伴ってSNSを始めとした様々な暇つぶしアプリが誕生していることも大いに関係している。物理的に本を開いてひとつの物語にログインし、前後の情報を頭に蘇らせながら短い時間で長い文章を読み進めていくよりも、片手で操作できるアプリをいじる方が楽だし、100文字程度で完結しているかのように思わせ、かつ刺激的な文字列を眺めていた方が何かを知った気になれるからだ。

こんなことではいけないと意識的に読書の時間を増やすようにしているのだけど、最近、自分のある変化に気づいてしまった。読書をしながら"引用ツイート"を探してしまのだ。どういうことかと言うと、本を読み、(この一文はとても美しいな)(この登場人物はとてもいいことを言っているな)といったポジティブな感想を抱いている時や、(この情報は本当なのだろうか?)(この表現は炎上しそうだけど大丈夫なのか?)といったネガティブな感情を抱いた時、無意識のうちに(他の人たちはどう感じているのだろうか)と考え、誰かの感想をすぐに探そうとしてしまっているのである。

「自分ではうまく表現できない感情を誰かに言語化してもらいたい」という思いからこの行為を取っていることもあるが、「自分はこの表現に反対なので他の誰かにも反対意見を表明してもらいたい」「自分は口には出しづらいが、誰かの叱責を見て溜飲を下げたい」といった理由の方が大きいケースもある。自分で感情を整理できず、誰かの言葉で自分の感情を納めようとしているのであり、怒りの托卵、怒りのアウトソーシングである。SNS上ならまだしも、より個人的で独善的で構わないはずの読書という行動においてもそんな行為を取ろうとしてしまうのは、我ながら悲しくなくなってしまう。

こうした情けない行為を取らないようにするためには、どうすればいいのだろうか。とりあえず、積ん読を消化していくことに力を注いでいくべきなのかもしれない。

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