ネクタイも上手に結べないのに

先日、法事に行くために久しぶりにネクタイを結んだ。学生時代からネクタイを締める機会が少なく、就職してからもTシャツやパーカーでOKな職場ばかりで働いていたので、どうにもネクタイを上手に結ことができない。
というか、ネクタイをした状態で仕事をするのを避けるためにそういった職場を選んでいた節すらある。

ネクタイから逃げたのは「スーツを着なければならないようなお堅い仕事はしたくない」といった青臭さ溢れる理由からではなく、「スーツやワイシャツや革靴などの素材の"固さ"が体質的にかなり苦手」だからだ。ネクタイの息苦しさやスーツの可動域の狭さ、革靴の密閉感など、フォーマルな格好には固さが付きまとうが、そうしたものを身に付けていると肉体的にも精神的にも、普段の倍以上の疲労を感じてしまうのだ。
今から考えれば高校時代の学ラン&ローファーという格好も苦手だった。だから碌なことのない青春時代だったのではないか、とさえ思ってしまう。
サラリーマン時代にスーツを着るのは、新規顧客との初めての打ち合わせ、タイトなスケジュールを経た末のプレゼン、なんかやらかした時の謝罪などの場面がほとんどだった。だから、フリーランスとなり、冠婚葬祭以外でスーツを着ることがなくなった今でも、スーツには変わらぬ苦手意識を持っているし、ネクタイやスーツを上手に着こなしている人を見ると「わあ、大人」と感じてしまう。この場合の「わあ、大人」という感情は、不惑を目前にした今でも感じる「自分が何歳になっても高校球児はみんな年上に見える」に通じるものがあり、半ば他人事な思いを含んでいる点が却ってこちらの未熟さを表すものになってしまうのも情けないところである。

街中に佇む子供の像
要はいつまでも子供のまま、ということである

こうしたスーツに対するコンプレックス、というか、ルサンチマンという言葉の方がピッタリきそうな感情を抱えているがために、たまにスーツを着るとネガティブな思いに襲われてしまうし、その度に「僕は本当にちゃんとした大人になれているのだろうか…」と自問自答してしまう。だが同時に「いや、ちゃんとした大人ってなんだよ」という思いも抱く。

10代後半から20代前半の頃に抱いていた”ちゃんとした大人”像はいろいろあった。
・いろいろな分野に精通してどんな領域でも正しい情報を発信できる人
・相手の話をすぐに理解して最適解を導き出せる人
・精神的にも金銭的にも余裕があり怒ることなどない人
・周囲に気が利いて誰にでも優しく接することができる人
などだ。
もう少しイメージしやすい表現をすれば
・アルバイト先で出会った年上の先輩
・大学のサークルで出会った2学年以上の人たち
・就職した会社の最初の上司
などがわかりやすいかもしれない。

だが、年だけは重ねてきた今になってわかるのは、もともとイメージしていた”ちゃんとした大人像”に叶う人などほとんど存在しないということだ。社会で出会った一見大人と思えるような人々も、実際には「狭かった世界から這い出て間もない頃に出会った年上の人間」というだけで、中には年齢が幾ばくか上というだけで、人間性は斜め上な存在であり、10年後20年後に振り返ってみると「いったいなんであんなにも未熟な人を尊敬していたんだろう…」と不思議に思うこともある。
仮に"ちゃんとした大人像"に近くとも、いろいろな分野に精通してどんな領域でも正しい情報を発信できるけど浮気癖がひどくて何人もの女性を泣かしている人、相手の話をすぐに理解して最適解を導き出せるけどあくまでもポジショントークでしかない人、精神的にも金銭的にも余裕があり怒ることなどないけど怒らないだけで別に優しかったり人を慮ったりできるわけではない人、周囲に気が利いて誰にでも優しく接することができるけど本質的には事なかれ主義で他人に興味がない人など、表面的な顔とはまったく異なっている人も多い。むしろ、それこそが大人なのだろう、と思うことも増えてくる。

とはいえ、である。

先日迎えた久しぶりのスーツを着る機会では、やはり上手にネクタイを結ぶことができなかった。
どうしても結び目のところが極端に細くなってしまう。一度ほどいて違う結び方にチャレンジしてみると、今度は不格好に太くなる。どうしたらちょうど良い逆三角形になるのか、皆目検討がつかない。
そうやって妙にツルツルテカテカとした細長い布をいじり、何がスモールチップだ、何がブレードだ、ロマンシングサガやモンスターハンターじゃあないんだぞ、などとブツブツと唱えながら、「それにしても、40を前にしてネクタイも満足に結べない人間のところに生まれてきてしまった僕の子供はかわいそうだなあ」と考えてしまう。

そう。実は僕には子供が生まれたのだ。

晩婚化や父親年齢の上昇が進む令和の時代ではあるものの、まさか自分がいい歳を過ぎて人の親になるとは思ってはいなかった。
精神的にも実利的にも備えは少なかったが、そうなってしまったものは仕方ない。どうにか子供を飢えさせず、可能な範囲でまっとうな教育を受けさせ、子供自身の力の及ばないところで何かを諦める機会をできる限り少なくしてあげたいと思う。そのためにもちゃんとした大人にならなければいけないし、せめてネクタイくらいはちゃんと結べるようにならなきゃいけない。

子供が生まれた3月のある日の真夜中。そんなことを考えながら、産院から自宅まで徒歩で帰宅しところ、郵便受けには「国民年金保険料未納のお知らせ(4ヶ月分)」と書かれた通知が入っていた。普段は一括で支払っているのだが、どうやら2023年度は勘違いをしていて半期分しか支払っていなかったらしい。どうにもこうにも情けなくなるし、悪いのは完全に僕であり、国はなすべきことをなしているだけではあるし、何よりもこちらのスケジュールなど知ったこっちゃないのだが、何も人生の一大イベントを経た日にこんなものを寄越さなくても、とは思った。
それと同時に、ちゃんとした大人というのは、社会的に必要な手続きを後回しにしたり、老後に備えて資産運用をするのを面倒くさがったり、国民年金保険料を未納したりしない人を指しているのだろうという真理にも到達できた。

年金も上手に支払えないし、ネクタイも上手に結べない。そんな人間の元に生まれてきてしまった我が子には大いに同情する。
ただ、どうにかして、いつかの未来で「あなたの子供に生まれてこれてよかったよ」とでも言ってもらえるように、せめて「生まれて来なければよかった」なんて言わせないようにはしたいと思う。
だからせめて、まずはネクタイだけでも上手に結べるようにしよう。

眠る子供
大変な世の中に生まれてくることになったけれど、生まれてきたことを後悔しないようにさせたいとは思う

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です